ネット時代の到来とともに、広く一般を対象に発表する文章の長さに印刷物ゆえのコスト的制約がなくなり新しい文体が模索されている今、
毎日新聞夕刊「ダブルクリック」欄・第四回「新しい文体」 – My Life Between Silicon Valley and Japan

なんだその「新しい文体」って?
一体、だれがいつどこでそんなもの「模索」してるの?

ネット・ベンチャーの若者に聞くと、記者が書いた新聞記事がそのままネット上に転載されても、短すぎて人気が出ないのだという。
毎日新聞夕刊「ダブルクリック」欄・第四回「新しい文体」 – My Life Between Silicon Valley and Japan

それって、どこの「ネット・ベンチャー」の「若者」?
「記者が書いた新聞記事がそのままネット上に転載されても」「人気が出ない」のは、短すぎるからではなくて、たんに紙面で読んじゃってるからじゃないの?

新聞に書く場合、文章にどうしてもミニマリズムを貫かざるを得ない。
毎日新聞夕刊「ダブルクリック」欄・第四回「新しい文体」 – My Life Between Silicon Valley and Japan

なんだってフツーに「短い」とか「端的な」とか言えないのかね。
わざわざ「ミニマリズム」なんて単語を使って格好つけてるところが胡散臭く、信用できない。

教養、識見、文章力の備わった新聞記者諸氏は、そんな総表現社会の重要な担い手だ。しかし身体に染み付いた文体の制約でそれが達成されないとすれば、つまらないことこの上ない。現代の福澤諭吉たらんとブログを開設し、長さの制約に縛られない新しい言語態の創造にぜひ挑戦してほしい。
毎日新聞夕刊「ダブルクリック」欄・第四回「新しい文体」 – My Life Between Silicon Valley and Japan

まとめると、「新聞記者」の「身体に染み付いた文体」とは「ミニマリズム」のことであり、「長さの制約に縛られない新しい言語態」とやらが先の「新しい文体」らしい。

要するに、サーバーの容量はたっぷりあるからひたすら長い文章を書けと??

新聞記事が「ミニマリズム」なのは取り扱うトピックが沢山あるからであって、「印刷物ゆえのコスト的制約」なんか関係ないだろ? もしもそうであるなら、新聞社は書籍を出版しないはずだよな?

福沢諭吉の「言説スタイル」とやらはどこ行っちゃったのよ?

「自分が発信しようとしている言説の受け取り手が誰であるのか、自分の言説の送付によってその受け取り手の精神と身体にどういう効果を与えたいのか、彼にいかなる行動を起こさせたいのか、等々の熟慮を凝らしたうえで、具体的な目的の達成にふさわしい言語態をきわめて厳密に選択」した結果として、新聞記事はそれ相応の長さになってるんじゃないの??

「『福澤諭吉著作集』を集中的に読んでい」たくせに、「松浦寿輝が福澤諭吉についてこう書」くまでは「膝を叩」くこともなかったのもよく分かるよ。

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